わが国で最初の正史は『日本書紀』。
その中で唯一「嫡子」と表記されたのが、第29代·欽明天皇だった。欽明天皇は第26代·継体天皇のお子様だった。
しかし、欽明天皇には兄として第27代·安閑天皇と
第28代·宣化天皇がおられた(その他にも即位しなかった
兄弟がおられる)。にも拘らず、『書紀』はそれらの方々とは区別して、
欽明天皇を「嫡子」とした。これは何故か。母親の違いだった。
安閑天皇と宣化天皇の母親は地方豪族の娘
(尾張連草香の娘、目子媛)だった。それに対して、欽明天皇の母親はそれまでの皇統の直系の血筋を引く
手白香皇女(第24代·仁賢天皇の娘)だ。『古事記』の書きぶりを見ると、応神天皇の5世の子孫とされ、
天皇からの血筋が遙かに遠かった継体天皇は、手白香皇女
(『古事記』の表記では手白髪命)との婚姻により、
“入り婿”として即位された経緯がより鮮明になる。そのお子様だった欽明天皇は、(父親でなく!)
母親の血筋=女系を介してそれまでの直系の皇統に繋がる方だった。
それで、兄たちより後から即位されたにも拘らず、
他の兄弟とは区別して嫡子とされた。しかも、安閑天皇も宣化天皇もそれぞれ直系の皇女
(仁賢天皇の娘、春日山田皇女と橘仲皇女)を正妻とされ、
崩御後はお2方とも異例ながら正妻と同じ御陵に合葬された、
と『書紀』は伝えている。つまり継体天皇の場合と同じく、“入り婿”として
皇位を継承した事情が窺える。
その上、安閑天皇の場合はお子様自体がおられなかったが、
宣化天皇に男子のお子様がおられても、皇位は継承されていない。一方、手白香皇女の血筋を引く欽明天皇の系統によって、
その後、皇位は途切れなく受け継がれ、今上陛下に至っている。
この事実は何を意味するか。“大傍系”だった継体天皇の血筋だけを引くのでは、次の代からの
皇位継承を正統化できず、その為には直系の手白香皇女の血筋を
受け継ぐことが不可欠だった事実を示す。
そうであれば、欽明天皇は傍系の父親の血筋も引いているが、
皇位継承に際しては直系だった母親の血筋を引くことこそが、
その“第一条件”だったと見るべきだろう。いわゆる「倭の五王」の時代を経て、シナ父系制(男系主義)
の大きな影響を受け、男系継承の標識としての「姓」が既に
成立した6世紀でさえ、こうした実情があった。
父親の血筋=男系ではなく、母親の血筋=女系こそが皇位継承の決定的な
条件だったという意味で、欽明天皇の即位は「女系」による
継承だったと理解する方が、当時の実情により近いだろう。これ以後の天皇は全て、既述の通りこの天皇の血筋を引いておられる。
【追記】
プレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」8月25日に公開。https://president.jp/articles/-/72942
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